街に溶け込むお寺のドラマ
こんにちは。芸術専門学群の鷹尾彗剛です。
今回は私が高見原地域を歩いて見つけたお寺についてご紹介します。
それがこちら。東大峯山向山寺です。
一見すると普通の家のように見えるこのお寺ですが、実は波瀾万丈のドラマがあるんです。
まずお寺に関する情報を。
宗派は真言宗醍醐派。かの有名な弘法大師の実弟・真雅僧正の弟子である理源大師・聖宝が、醍醐天皇の帰依を受け、勅令によって薬師堂、五大堂などの諸堂を建立しながら醍醐寺を開創したことに始まる宗派です。
発祥は戦前松戸市大字松戸字向山の山林に奉納された88体の石仏像と御朱印場に遡ります。
その御朱印場を手伝っていた「妙響」が向山寺を開山(寺院を創始することを「開山」と言います)することになるのです。
戦後、仏教信仰の拡大を背景に向山の御朱印場は実質寺と同じ役割を果たすようになり、加持祈祷も行っていましたが、昭和26年に宗教法人法が公布されます。
寺院に都道府県認証が必要になり、妙響は御朱印場を「向山寺」として法人確立するために奔走します。
その甲斐あって昭和29年3月には千葉県知事の宗教法人設立認証を得ることができ、「向山寺」が名実共に寺院として設立されました。
向山寺の寺院運営は表向き信者も多く、軌道に乗っているように見えていましたが、決して楽な道ではありませんでした。
他の歴史ある寺院のような基盤がなく、檀徒(葬祭や供養などを専属で営んでもらう代わりにそのお寺を経済的に支援する家のことです)を持たず、境内すらも借地での活動拠点だったため、全て新たに築き上げていかなければならなかったのです。
家計は厳しく、妙響は自分の生活を犠牲にするほどの苦労をしながらも信仰と人脈に支えられて着実に向山寺の基盤を築き上げていきます。
昭和30年代半ば頃には向山寺の年中行事も定着し、尼僧が修法することは例がなかった柴燈護摩法要を毎年盛大に行うまでになりました。
しかし昭和45年、火災により向山寺の本堂と庫裏が全焼してしまいます。
また、それまで妙響を支えてきた人物である小松康秀さんが翌46年に亡くなってしまいました。
さらにその頃には世の中の宗教に対する見方も変わってきていました。祈祷やまじないを商売と見る人が多くなっていたのです。
これを機に妙響は他の地を取得して「菩提寺」を目指すことにします。
妙響の「祈祷寺は決して商売ではないのだから、世間で流行する商法的なまじないごとや占いごとと混在して勘違いされるのは御免だ」との思いからでした。
そして昭和48年、向山寺はここ高見原に移転してきたのです。
建物は移転してきた時のままで立派なお堂などはありません。
一見すると普通の家にも見えますが、実際に住職の住まいである庫裏と事務所を兼ねているのです。
そしてこの向山寺がこのような姿をしている理由は住職の小松康禅さんがお寺のホームページで語っておられます。
古義真言宗としての伝統を重んじ、壇信徒自らの信仰心を尊重し、宗教としての慈善事業の精神を大切にしたいと考えているとのことです。
詳しくはホームページをご覧ください。
それでは今回はこれにて。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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