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執筆者の写真今村 翔太

谷田部とともに歩んだ寺院、明超寺

更新日:2020年2月12日

こんにちは。筑波大学情報科学類の今村翔太です。


谷田部地区では、飯塚 伊賀七を元に町おこしを進めています。この記事では、その飯塚 伊賀七の作った五角堂の脇にあるお寺について紹介したいと思います。



五角堂の横には、明超寺という、浄土真宗大谷派の寺院があります。このお寺は700年以上も前から、谷田部地区の中心にあって、地域の人の心の拠り所としての役割を果たしつつ、谷田部地区の歴史とともに歩んできている寺院です。その創設の由来は、資料が不足していることもあって、諸説があるようですが、まだ日本が鎌倉時代だった、1307年に創設されたといいます。



明超寺の建物自体は、移転や火災などによって何度も失われてきましたがその度にきちんと再建されてきて、今日まで続いてきています。

本堂脇には、浄土真宗の創設者である、親鸞聖人の立像が建てられていました。等身大サイズで、かなり立派なものでした。



明超寺の本堂の天井には、「八方睨みの龍」という天井画が設置されています。以前、京都の天龍寺に行った際に、天龍寺の「八方睨みの龍」の天井画を見学しましたが、この種の絵は、不思議なことに、どこから見ても、龍の目に睨みつけられているような、そんな印象を受けます。今回、見学にいった際には、本堂の中まで見ることはできませんでしたが、恐らく、何かの行事の機会には見せていただくことができるでしょう。是非、明超寺の「八方睨みの龍」も見学してみたいと思います。

実はこの絵自体は1997年に明超寺の本堂が再建された際に、旧谷田部町出身者の中で、初めて院展作家になった日下鉄五郎さんによって描かれれたものだそうです。この龍には、創建以来たびたび火災によって焼失してきた明超寺を守って欲しいという願いも込められているようです。






続いて、本堂の脇にある、鐘撞堂に足を運んでみます。実はこの鐘も、明超寺の経てきた歴史を物語っている存在です。

1941年には日中戦争の影響で、深刻な金属不足に陥っていた日本では、「金属回収令」を発令し、全国の不要な金属資源を回収することになりました。そんな中で、当初はあまり使わないもの・緊急性のないものが集められていたのですが、太平洋戦争の戦局悪化もあって、寺院の鐘も回収の対象になってしまいました。

そのため、1944年に明超寺の梵鐘は、献納という形で軍に供出されていってしまたのです。そこから十数年間の間、明超寺は鐘のない寺院として活動していくことになったといいます。

明超寺のような寺院でさえ、戦争の影響を強く受けていたようです。

現在、明超寺にある鐘は、戦後に再建されたものです。来訪者はその鐘を自由につくことができます。



日常生活で鐘をついたり、あるいは鐘の音を聞いたりということは、たぶんそこまでないと思うので、せっかくの機会ですし、鐘を鳴らしてみました。まずは、鐘撞堂の掲示にあるようにお辞儀をして、御念仏を唱えます。そして、鐘を鳴らしてみます。心が安らぐような鐘の音が心に響いてきます。再び合掌して御念仏を唱えてから一礼して退出します。なんとなくですが、現代の騒々しい生活とは別の世界を一瞬だけ垣間見ることができるような、そんな気がします。

ここ明超寺は谷田部地区のキースポットである五角堂のすぐ脇にあるので、皆さんも機会があれば是非立ち寄ってみてください!



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